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2008年6月30日 (月)

カンボジア情報:新川加奈子『カンボジア今』を読む(6):「曖昧さ」に留意

 新川氏の著書を読んで、カンボジア人のことを多様に学ぶことができた。たとえば彼女は次のように述べている。

 「こんな馬鹿がつくほど純粋な人の良い職員を絶対見捨てられない」(p.46)。彼女が働くNGOのカンボジア人について述べた部分である。念のために言えば、この「馬鹿」は、前後の文脈から深い愛情と信頼から生まれた言葉であることは間違いない。

 「毎日の生活をすることが、彼らにとって一番大切なことであり、過去を振り返っている余裕がないのかもしれない」(p.53)。これはポル・ポト時代に対する意識調査の結果を示している。そこでの「あなたを苦しめたポルポト派幹部を許しますか?」という質問に対して、「許す」(67.2%)、「許さない」(26.5%)という驚愕の結果が示される(p.57)。外国人のわれわれから見れば、当然「許さない」と思うのだが、この回答は不可思議である。これが現在のカンボジアを理解する鍵であるかもしれない。

 この理由として新川氏は、カンボジア内戦は「カンボジア民族という単一民族で生じた出来事である」こと、「あまりにも凄惨でありすぎること」、「国民の3分の1にあたる人々、それも知識層を主とした抹殺は、残りの人々に戦意を消失させた」ことなどを指摘している(p.57)。さらに現在も加害者と被害者が共存・同居している状況だからであろうか。

flairflair加害者と被害者が共存しているカンボジアにおいて、よく知らないカンボジア人同士は過去を問いかけることに慎重にならざるをえないだろうし(p.82)、ましてや外国人が興味本位でポル・ポト時代の状況を聞くことは避けるべきなのだろうと思う。私の親しいカンボジア人に確認するべき宿題である。

 このことを新川氏は別の質問のコメントではあるが、「「曖昧さ」こそ、現代のカンボジア社会の特徴である。しかし、この特徴がこの国の発展を妨げているとも言えよう」(p.59)と述べている。この指摘は、程度の違いはあるが、日本にも当てはまるのかもしれない。西洋的な合理主義を徹底できない「曖昧さ」を日本人も所持しているように思われる。

 たとえば日本企業では、株主や経営者と立場が異なる従業員・労働者を「社員」と長く呼んできた。このような数々の「曖昧さ」が日本型経営の長所でもあったが、逆に今日、外国ファンドといった株主の目から見れば、それらが奇異な現象とみなされている。

 この「曖昧さ」は次のような疑問にも関連する。「国全体のモラルが国際的な基準に合致することのできる国に、カンボジアはなることができるのか? ポル・ポト派裁判の経過そして結果がそれを示すであろう」(p.60)。

 この「国際的な基準に合致」するためには、「曖昧な」カンボジア人自身による改革は難しい。「曖昧な」日本やベトナムの歴史が証明していると思われる。改革のための「外圧」が必要である。事実、カンボジアは2004年にWTO加盟を果たし、それに付随した改革が進展してきている。

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