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2008年5月26日 (月)

熊岡路矢『カンボジア最前線』岩波新書を読む:1993年までのカンボジア(上)

 熊岡路矢『カンボジア最前線』岩波新書(1993年)を読んだ。私の関心と印象は、カンボジアとベトナムの関係についてであった。いくつかを以下で抜き書きしてみる。

 なお同書の「ヴェトナム」という表記は、以下では「ベトナム」と変更している。私が「ベトナム」を一貫して使用していることと、日本の外務省の表記も「ベトナム」だからである。私見では、「ベ」と「ヴェ」のいずれの表記であっても、原語のViet Namを正しく発音できないのだから、両者の区別は重要ではない.。日本語表記は日本人のためだけの便宜にすぎない。

 「1978年12月にベトナム軍20個師団が、数百人の「カンプチア民族救国統一戦線」(ヘンサムリン議長)とともに国境を越え、ポル・ポト声援を一気に倒してしまった」(p.2)。これが「ベトナムのカンボジア侵攻」と呼ばれる出来事である。

 「ベトナム軍は、これ以後約10年間、1989年9月の完全徹底まで、カンボジアに駐留した。ベトナム政府は、駐留していたのは正規軍ではなく、ベトナム兵が「自発的に」カンボジアの人々を助けにいったのだという建て前で、カンボジア在留ベトナム軍を、「志願兵の軍」であると内外に説明してきたが、実際には政府の決定による正規軍の派遣であった」(p.40)。

 1979年1月10日に樹立された新政府・カンプチア人民共和国の「政権政党は、「人民革命党」(1993年現在は「人民党」)である。・・・「「ヘンサムリン」政権は、ベトナムの影響下でつくられ、ソ連・東欧圏の援助を受けたので、「ベトナム型社会主義政権」の側面をもつことは否定できない。しかし、実際に内側で暮らして感じたのは、イデオロギー色が薄く、カンボジア人が生き延びるための「サバイバル」政権の性格が非常に強いことである」(p.43)。

 ただし「ヘン・サムリン政権誕生以来、国連におけるカンボジア議席問題が、カンボジア問題の焦点のひとつであったが、約12年間、国連議席は、つねにゲリラ側=「亡命政権」の側に与えられ続けた。79年から82年までは、ポルポト派の「民主カンプチア」政権が、そして82年から「パリ和平協定」までは、「民主カンプチア」三派連合政権が、国連議席を維持してきた」(pp.43-44)。

 この当時、「「ベトナム=悪」、「ヘンサムリン政権=かいらい政権」という雰囲気」(p.88)があり、著者のカンボジアでの活動も自国内で支持・支援される可能性が少なかった。著者自身も、「1978年クリスマスのベトナム軍のカンボジア侵攻を聞いて、その前の国境紛争について情報が少なかったこと、ベトナム共産党(旧労働党)とカンボジア共産党(ポル・ポト書記長)は”友党”であると思っていたこと、そしてポル・ポト体制下で起きたことへの無知もあり、ただただ驚いた。この時点からJVC参加音1980年まで、ベトナムが一方的に悪いと思っていた。80年に一緒に働いた日本人ボランティアの多くも、侵略者ベトナムと戦うポル・ポト派ととらえていた」(pp.45-46)。

 flair:カンボジア在住の著者であってでも、以上のような誤解をしていることに私は驚かされた。客観的に見て、それは他国へのベトナムの侵略であったが、今から考えれば、ポルポト派の大虐殺を阻止した文字通りの「救世主」はベトナムであった。このことでベトナムは国際非難を浴びたし、経済制裁まで受けて、自国の経済発展は大きく遅れた。さらに「懲罰」を名目として1979年に中国からの軍事的侵略まで受けている。今日ポルポト派の大虐殺が明らかにされ、それに対する国際法廷まで開廷される予定であるが、ベトナムに対する名誉回復は果たされたのであろうか。ベトナムは、この歴史をどのように自国で語っているのであろうか。注目される論点である。

 「1987年あたりからは、国際情勢、およびカンボジア問題の国際解決の流れのなか、ベトナムはカンボジアへのコントロールをゆるめていった」(p.42)。「1989年以降、ベトナム政府の影響力は目に見えて落ち、その後ヘン・サムリン政権は、よい面での変化も悪い面での変化も、主にカンボジアだけでやってきたのだと思う。事前に警告されたように、ベトナム軍撤退後、ポル・ポト派は、領土の拡大をはかり、その結果20万人近い国内難民が出た」(p.43)。

 「それまでは、土地も建物も公有だったが、1989年よりカンボジア人の間で使用権が売買できるようになった。1991年からは外国の企業も使用権を売買できるようになってしまった」(p.43)。

 「米国の政治指導者たちは、・・・ベトナムによるポル・ポト政権打倒は、一国の主権侵害であり、周辺のカンボジア、ラオスを併合し、ベトナム中心の「インドシナ連邦」をつくるのではないか、という疑念まで起こさせたに違いなかった。
 その結果、米国を中心に西側社会と国連は、経済封鎖・制裁、援助の凍結を行った。それとともに、ベトナムへの懲罰と包囲網の一環として」(p.3)・・・インドシナ難民を寛大に容認するという「過剰反応ともいえる決定をしてしまった」(1979年7月の「第1回インドシナ難民国際会議」)(p.3、p.6)。

 「広義の「政治難民」と判断できる者は、2割もいなかった。残りの8割強は、よりよい生活を求める「経済難民」であったと私は思った」(p.7)。

 flair:私見では、今日の外国在住ベトナム人(越僑)のベトナム帰国を積極的にベトナム政府が奨励し、実際に帰国および投資・送金が増加していることによって証明されている。いわゆる「ボートピープル」と呼ばれたベトナム難民が「経済難民」であったからこそ、WTO加盟を果たしたベトナムの経済的魅力に惹きつけらている。

 12世紀からカンボジアは衰え、カンボジアの地図を見れば、「ベトナムとタイが、いかにえげつない領土(特に海岸線)のとり方をしたか、よくわかる」と「亡くなられた産経新聞の近藤紘一記者」が教えてくれた(p.24)。「その結果、島々もたくさん取られてしまった」(同上)。

 「1720年には、カンボジアはアユタヤ(タイ)、ベトナムに服属する」(同上)。「そして19世紀、・・・フランスが、カンボジアを保護領とした。フランスの最大関心はベトナムにあったようで、ラオスとカンボジアについては、ベトナム人を中間官僚(たとえば税官吏)に登用して支配した。したがって、ラオス人やカンボジア人の、本来フランスへ向かうはずの憎しみや反感の一部は、強くベトナム人に向けられて、現在にいたっている」(p24,p.27)。 (以下、続く)

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