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2007年11月 4日 (日)

大学教授の資質:「学問研究の成果に値しない」とは?

 「南京大虐殺はなかった」という趣旨の書籍の著者である大学教授と出版社が、その被害者の中国人女性から名誉棄損で訴えられていた。東京地裁の判決は、名誉棄損を認めて、この女性に対して慰謝料を支払う判決を言い渡した(11月3日の新聞各紙)。

 その判決文の中で裁判官は、「通常の研究者であれば矛盾を認識するはずで、原資料の解釈はおよそ妥当ではなく学問研究の成果に値しない」とし、教授の指摘は「真実であるとする理由がない」と判断した。これに対して大学教授は、「非常に心外だ。控訴する方針だ」とのコメントを出したそうだ。

 この新聞記事を読んで、「学問研究の成果に値しない」という文言が注目された。それは言い換えれば、その直前に指摘されている「通常の研究者」としての存在を否定された判断が下されたということだ。これは、大学教授にとって厳しい表現だ。

 私見では、研究者であれば、少なくとも論理や事実の前には謙虚でなければならない。そうでなければ、研究者としての自己否定である。大学教授が自ら研究者でないことを認めたことになる。私の場合、このブログは論文ではないが、少なくとも虚偽や捏造はありえないように努力している。実名を公表してブログを書いているからには、事実と論理を欠落させては、大学教授としての資質を疑われることになるからだ。

 このような事実と論理に基づいた主張は、ジャーナリストや評論家にも必要であろう。たとえば、この書籍の著者が大学教授ではなく、ジャーナリストや評論家であったとしよう。その場合も、取材対象に対する名誉棄損は成立するだろう。書籍としての公刊は、社会的な影響力が大きい。

 それでは、大学教授もしくは研究者とジャーナリストや評論家との相違は何か。おそらく前者には、理論的な展開や実証といった内容が要求されているのである。理論的な志向が大学教授には求められている。

 冒頭の大学教授は、どういう反論をするのだろうか。「通常の研究者」であることを否定されたことが「心外」ということなのか、その主張が否定された判決が「心外」であるのか。おそらく、その両方なのだと思う。

 新聞記事を読んで、自己を再点検する機会をもつことができた。この判決に「心外」な大学教授の今後の対応に注目したいと思う。

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