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2007年8月 7日 (火)

ラオスのダイエー創業者・中内功:2001年12月

 先週、ラオスを訪問し、その様子を紹介した。帰国後に『読売ウィークリー』2007年8月19日~26日で「大塚英樹氏が初めて明かす・独占・中内功の壮絶な晩年(前編)」を読んだ。

 2005年9月19日に83歳で亡くなった中内氏に対して、私は同年9月最初にEメールを送っていた。今年9月に第5回目を実施予定の「ラオス清掃ボランティア活動」の報告がその内容であった。いつもは筆まめに返事を直ちに頂戴していたが、その時の返事はなかった。日本に帰国後に大学の事務局に事情を聞くと、中内氏は入院中ということであった。そして私のEメールは永遠に返事が来なくなった。

 中内氏とラオスとの関係は、2001年9月~12月までJICA短期専門家として私がラオスに赴任していた時から始まる。私の使命(ミッション)は、ラオス国立大学経済経営学部およびラオス日本人材協力センター・ビジネスコースの運営支援であった。その一環として、中内氏に来寮をお願いした。

 予め「ラオスに来てください」というお願いをしており、中内氏からは「検討する」という返事を頂戴していた。その後に足先を骨折されて車いすを使用されていた。それでもラオスに奥様と一緒に来てくださった。その間、ラオスの日本大使公邸で夕食会が開催された。

 冒頭の記事では、中内氏は01年に、ファウンダー(創業者)に就任してからは、ダイエーのことはほとんど語らなくなった。現に、これ以降、マスコミのインタビューには応じていない。貝になったのだ。ナゾに包まれた最晩年に、中内は何を思っていたのか。」(90ページ)と書かれている。

 この時期に、中内氏はラオスを訪問し、経済経営学部のラオス人大学生やラオスのビジネス人を対象に2回の講義をしていた。小さな「サカエ薬局」が強大な流通企業となり、ハワイのアラモアナショッピングセンターを買収するまでに成長する。この映像を交えた説明にラオス人受講生の中から「ウォー」という「どよめき」が起こった。この時の中内氏は、車いすから起立して毅然と話されていた。

 講義前の昼食では、ナンプー噴水公園にあるイタリア料理レストランのオペラから取り寄せたピザを美味しいと食され、講義後の夕食では、ラオ=プラザ=ホテルのレストランで、カレーライスをやはり美味しいと嬉しそうに食べられた。

 この講義では、ダイエー発展の歴史が語られ、自らの現状には触れられなかった。ダイエーの歴史は中内功の歴史でもある。その講義は誇りに溢れ、堂々としていた。日本では「貝になった」中内氏が、ラオスでは雄弁であった。

 その胸中は不明だが、少なくとも私には「我が人生に悔いなし」というメッセージが伝わってきた。講義であるからには、どんな受講生にも何らかのメッセージがなければならない。それぞれのメッセージは、受講生によって異なる。講師の意図するメッセージとそれは、必ずしも一致しなくてもよいと思う。

 私がラオスにこだわる理由は、このような想い出とメッセージがよみがえるからである。 

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