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2006年11月21日 (火)

古森義久氏がハノイ訪問(上):彼は何を見てきたか?

 私は、拙著(『ベトナムビジネスがいま熱い』カナリア書房)で古森義久氏を批判したが、その古森氏がベトナムのハノイを訪問した。その記事について、私のコメントは明日に掲載予定である。

 なお先日、このブログ(11月2日)で、古森氏と同じ産経新聞ご出身の高山正之・帝京大学教授について取り上げた。その後のコメント欄に「先生と産経新聞は天敵ですね」という書き込みがあった。「天敵」とは、相手が苦手という意味が含まれているが、私にとって産経新聞は苦手でない。以前に、NHKラジオ第一放送『新聞を読んで』という番組で新聞5紙を1週間読んで論評するという仕事をした。そこで産経新聞を特別に批判したことはない。カラー写真を多数使用した読者に読みやすい紙面だと評価したこともある。

 しかしベトナムとなると、私は黙っていられない情熱を感じる。それは、記事の中で古森氏が以下で述べているような「ベトナムという語を聞くだけで、皮膚がぴりっとするような反射感覚がいつまでも残ってしまったのだ」という感覚とは少し違う。ベトナムという語を聞くだけで、何か自分のことを言われているような気がする。私の出身地の大阪府箕面市のことが気になるのと同じように、なぜかベトナムのことが気になる。「皮膚がぴりっと」はしないが、耳や眼がその方向に向けられる。

 ベトナムについて古森氏と私は共通して特別の関心がある。それでは、それぞれの相違点は何か? この問題を考えるために今日は、まず古森氏の記事を引用をさせていただきたいと思う。

--(引用開始)-------------------------------------
 【緯度経度】ハノイ・古森義久 ベトナム戦争の皮肉な結末
2006年11月18日 産経新聞 東京朝刊 国際面

 のどかな田園の風景を眺めながら、タイムマシンの心境となった。ゆったりと広がる水田に農民が散らばり、水牛までがのっそりと動く光景は30年以上も前の南ベトナムを思わせたからだ。激しい戦争の中でも農村の作業や日常の営みはいつもゆったりとみえた、あのベトナム戦争の驚異の一つだった。

 ハノイのノイバイ空港から市街までの40キロ近くの往路は工業や商業の発展を示す工場やビル、看板類も目立った。だがその合間に点在する農家のたたずまいは過去の映像と変わりなかった。ところどころに広がる水田はもっと鮮明に過去を連想させたのだ。

 ハノイの街に入って、「なんだ、サイゴンではないか」と感じた。サイゴンとはいうまでもなく、現在のホーチミン市、ベトナム戦争中は南ベトナムの首都だった。オートバイの洪水が勢いよく流れ、交わり、喧騒(けんそう)を生むハノイの光景はちょうど三十数年前のサイゴンにあまりにそっくりなのだ。

 私はベトナム戦争中、サイゴン駐在の特派員として3年半を過ごした。ちょうど3年目の1975年4月末、当時の北ベトナムの大部隊の総攻撃を受けて、サイゴンは陥落し、そこを首都としたベトナム共和国は崩壊した。その後の半年はハノイからきた新たな支配者たちの下で厳しい検閲を受けながら報道を続けた。

 その3年半は劇的な出来事に満ち、自分の青春の残りをすべて投入したような虚脱と満足とがあったから、その後もベトナムはずっと特別な意味を持つ地となった。ベトナムという語を聞くだけで、皮膚がぴりっとするような反射感覚がいつまでも残ってしまったのだ。

 さて今回、ハノイを訪れたのは98年以来である。アジア太平洋経済協力会議(APEC)の取材のためだった。その前の来訪は89年である。

 89年はベトナム軍がカンボジアからの撤退をついに宣言した年だった。ベトナムは79年にカンボジアに軍事侵攻し、大虐殺のポル・ポト政権を首都プノンペンから撃退はしたが、その後は泥沼のような戦いを続けて、国家として疲弊しきった。全世界でも最貧国の部類に落ちていた。そのときのハノイはまさに戦時の首都らしく、すべてをそぎ落としたように貧しげでスパルタふうな街だった。

 98年もベトナム社会主義共和国はドイモイ(刷新)の標語の下に経済をたぶんに開放はしていたものの、おりから東南アジアの金融危機の余波を受け、不況に襲われていた。ハノイの街路は依然、自転車ばかりで、オートバイは数えるほどだった。街の質素さも相変わらずで、色彩が少なかった。その前後に訪れたホーチミン市とではちょうどカラー映画と白黒映画の違いだと思った。

 8年後のいまハノイはカラー映画の街となっていた。街路を走るのは自転車よりもオートバイが大多数だった。市民の服装も表情も明るくみえた。ちょうど昔のサイゴンに似た外観なのだ。そんな時間のズレも、いまのベトナムがなお貧しいことを考えれば、説明がつく。APEC加盟の29メンバーでも国民平均所得ではなお最下位なのである。

 ベトナム共産党はそんな窮境を自由経済と外国投資の導入で脱しようとする。

 中国と同様の「社会主義市場経済」という、わかったようでわからない標語の下での新経済政策である。だが自由経済も外国投資も経済学的には資本主義の権化だろう。共産主義のテーゼが反動思想として厳しく排除した対象である。サイゴンを占拠した当時の革命政権としての北ベトナムは外国と結びつく資本主義を闘争の標的そのものとさえしてきた。

 そのベトナムが17日、米国のブッシュ大統領を国賓として迎えた。官民あげての歓迎の態勢だった。ベトナム政府は国家転覆罪の疑いで1年以上も拘束してきた3人のベトナム系米国人を対米友好のあかしに、つい数日前に釈放した。米国の民間の人権擁護団体から自国民の過酷な人権弾圧を指摘されても、ベトナム当局は温和な対応をみせるだけだ。ベトナムは米国となんとしても緊密なきずなを築きたいのである。

 こうした米国への接近と融和、そして共産主義をまったく離れての外資依存の資本主義経済の導入とは、いずれもベトナム共産党が「抗米救国」として戦った米国と、米国に全面支援された南ベトナムの政府とを相手とした戦争の大義からみれば許しがたい背反となる。

 ハノイの明るく活気ある街頭をみて、陥落前のサイゴンそっくりだなどと感じた私は皮相で不遜(ふそん)と知りながらも、ベトナム戦争の結末をそんな壮大な皮肉だなとつい思ったのだった。
--(引用終了)-------------------------------------

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