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2006年3月31日 (金)

帰国しました

 今朝、ベトナムから帰国しました。ハノイ・ホーチミンを5泊6日(機中1泊)で訪問しました。

 今回の仕事量は、インターネットでブログを書く時間もないほどでした。出張中のブログを休みましたが、日程順に訪問記録として記載しておきます。写真も添付しますので、ご笑覧下さい。

 いつものことながら、多くの方々とのお話の中からベトナムの最近の鼓動を感じることができました。またハノイとホーチミン市では、国立民族学博物館・樫永真佐夫先生の奥様が同行してくださり、ベトナム語の通訳を始め、そのほかの秘書役を引き受けていただきました。

 ひとりでは思い切りができない訪問先も、同行者がいると勇気が出るものです。樫永さんには、昨年のラオス訪問でもタイ語の通訳でお世話になりました。タイ語・ベトナム語・英語を駆使される樫永先生と同様に、その奥様の天才ぶりにも感心させられました。

 今回の訪越で考えたのですが、今までの仕事量が2倍や3倍になっても、それに対応する適当な秘書役がいれば、十分に仕事をこなせるということです。仕事が増えたから仕事を減らすのではなく、全体の仕事を増やして、それに対応する組織を作り、私個人の仕事を減らすという発想です。

 個人の仕事から、組織としての仕事に発展させる。個人事業から会社組織への進化。ベトナムの研究調査を通した私の「実学」も、そういう段階に入ったように思います。

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2006年3月30日 (木)

ハノイから

 26日夕方のベトナム航空で関空からハノイに向かった。そして27日は手作りケーキの鈴木さん(前ハイハコトブキ)の店、貿易大学、ハノイゴルフ(日系ゴルフ開発運営会社)、そして三進貿易を訪問した。
 27日は、JETRO・バンバさん、投資計画省の市川JICA専門家、ユニマートの荒川さん、そのほかベトナム人の友人と面会した。
 そして28日午前はベトナム人3名とホテルで面会後、午後の便でハノイからホーチミンで移動。29日は、ベトナム商工会議所ホーチミン支部、チュングウェンコーヒーショップ本社、JETROを訪問予定である。
以上の詳細は、また帰国後にお話します、

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2006年3月26日 (日)

箕面とラオスの清掃活動

 午前中は、箕面ライオンズクラブと箕面船場ライオンズクラブ合同の清掃活動のボランティアに参加した。箕面駅前に集合し、箕面の滝までの往復約6㎞の歩道でのゴミ拾いである。数年前までは、ゴミ袋1杯になったというが、今回はたばこの吸い殻があるくらいで、ほとんどゴミはなかった。観光客の意識の向上を反映していると同時に、それだけに喫煙マナーの悪さを実感した。

 箕面の滝は、織田信長の時代に戦国武将も見物したというから、歴史のある観光地である。早くから阪急電鉄が開通しており、その当時は動物園があり、多数の観光客でにぎわった。また箕面と言えば猿が有名であるが、現在は野生に戻しており、えさの少なくなる時期にまれに姿を見る程度となっている。

 ライオンズクラブでの清掃活動は、年配の方々が中心であるが、今年の夏に第4回目を予定しているラオスでの清掃活動は、大学生以下の青年・子ども達が中心である。これまで私は、だれにでもできるボランティア活動として清掃に注目し、それを通して日本とラオスの青少年が交流できればよいと考えてきた。それは、その目的通りの成果を上げてきたことは間違いない。

 しかし他方、こういった清掃活動をラオスに定着させることは、経済発展にも貢献すると最近考えるようになった。先日のベトナム研修で、職場=生産現場での「5S」の実践が現在の課題であるとベトナム人経営者が述べていた。5Sとは、整理・整頓・清潔・清掃・躾け(=習慣化)の頭文字のSをとった日本製の国際語である。この清掃活動を青少年が自然に実践するようになれば、その延長線上で職場の清掃も容易に受け入れられるであろう。この意味で、ラオスでの青少年交流の一環としての清掃は、将来の生産活動の品質「改善」にも連結している。

 清掃は、特殊な技術や多額の資金を必要としない老若男女を問わずに可能なボランティア活動である。このような清掃を通して、地元地域や世界の人々との交流ができればと思う。さらにそれが、ラオスのような途上国の経済発展に少しでも貢献できれば最善である。

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2006年3月25日 (土)

ベトナムセミナー:大阪と神戸

 24日に大阪と神戸でベトナムに関するセミナーがあった。私1人で2カ所に出席するわけにもいかず、私は神戸のセミナーに出席した。大阪にはベトナムとの取引を支援させていただいている中堅企業社長に出席をお願いした。セミナーは次の2つである。

 大阪:ベトナム経済講演会 山田康博氏(ジェトロ総務部長)「ベトナムへの今後の投資を考える:ピークに向かう対ベトナム投資」。主催:関西日越協会。

 神戸:第29回神戸FAZセミナー「インドシナ開発の進展と国際物流の変化」 ①井田浩司氏(ジェトロ海外調査部アジア大洋州課)「インドシナ半島の陸路物流」、②福田規保氏(山九(株)ロジスティック・ソルーション営業部)「インドシナ諸国陸路物流の実務と課題」。主催:ジェトロ神戸FAZ支援センター。

 大阪で講師をされた山田さんは、前ジェトロ(日本貿易振興機構)・ハノイ・センター所長であり、神戸で司会をされた肥後靖己氏(FAZ支援センターアドバイザー)は、同じくハノイ・センターの前々所長である。ハノイと日本で私は両氏にお世話になった。究極の選択の結果、今回は前々所長・肥後さんのセミナー出席を優先した。

 その理由は、現在の私の研究テーマが、「ベトナム・ラオス・カンボジアの企業経営におけるAFTA・WTO加盟の影響と対応」であり、インドシナ半島に関係するからである。また、(株)山九の福田氏が紹介したラオバオ(ベトナム・ラオス国境)に私も昨年に訪問したからである。これについては、本ブログの1月15日に「ラオバオの現況」を参照。

 ジェトロ井田氏の結論によれば、次の4つのルートを現在の海上から陸路に変更させた場合、いずれも輸送コストは上昇するが、輸送時間は短縮する。陸路にシフトする効果の総合評価は、①バンコク~ハノイ⇒○、②ハノイ~広州⇒◎、③バンコク~ホーチミン⇒×、④バンコク~ヤンゴン⇒△。

 このようにハノイを中心にした陸路(東西回廊)が、今後の有力な輸送ルートとして期待できる(○または◎)。これは、ハノイのタンロン工業団地を施工・運営する住友商事が実地調査した結果と一致している。他方、ベトナム・ラオス・タイ3国間の関係は良好であるが、カンボジア・ミャンマーが含まれる陸路は制度面での障害もあり、総合評価は×または△となる。

 これらのルートの物流ニーズの方向性は、ベトナムに求心力が働いている。つまり中国やタイから部品・原材料をハノイ・ホーチミンさらにダナンに輸送し、そこで組立・加工し、それを輸出する。このことによって、相対的に低賃金であり、政治的に安定し、労働の質が高いベトナムの優位性を最大限に活用することができる。

 以上のように物流インフラが徐々に整備されることによって、ベトナムの飛躍的な発展が現実のものになる。部品・原材料といった「すそ野」産業が未発達というベトナム経済最大の課題が克服されるからである。

 ただし貿易収支の問題が残されている。部品・原材料の輸入を高付加価値製品の輸出が上回ることが必要である。さらに対中国、対タイの貿易収支の動向に政府は留意しなければならない。原材料や部品の輸入超過を避けるために、セミナーで指摘されていたが、ベトナム向けの片荷だけではなく、ベトナムからの復荷を増やさなければならない。この結果、この陸路ルートの物流コストが低減される。

 同日にベトナムセミナーが大阪と神戸で開催される。今まさに、ベトナム投資ブームである。

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2006年3月24日 (金)

東京国立博物館のベトナム陶磁器

 靖国神社の遊就館を訪問して、館内で上映されている映画が日本人の誇りを強調しようとする意図は理解できた。しかし私は、戦没者に対する慰霊の気持ちそして戦争の悲惨さは惹起されたが、日本人の誇りといったものを感じることはできなかった。

 これに対して、おそらくベトナムの軍事博物館の場合なら、同じように戦争は悲惨であると感じるとしても、その戦争は祖国の独立と統一のための正義の戦争であり、しかもそれに勝利したという歴史を背景にしている。ベトナム人なら栄光と誇りに満ちた気分になるにちがいない。

 第2次世界大戦では、中国東北部(旧満州)で在留邦人の生命財産に危害が及ぼされるという名目で、中国における戦線が拡大していった。しかし、その危害を避けるなら在留邦人は日本国内に戻ればよい。いくら正当な権益があるといっても外国領土である。中国人が自らの祖国を日本から取り戻すことを考えるのは当然である。中国人は祖国のために戦った。これに対して日本は、相手の祖国に踏み入る侵略戦争を遂行した。外国に対する侵略を誇りに思うことはできない。

 靖国Dsc07254_1神社の翌日、上野の東京国立美術館を見学した。写真は、本館入口の吹き抜け部分のステンドグラスである。日本人または日本に対する誇りというなら、ここで私はそれを感じることができた。埴輪の時代からの展示物には、日本が世界に誇りうる美術・工芸・刀剣といった多数の重要文化財・国宝が含まれている。入館していた多数の外国人に対して誇らしく思えた。日本人の工芸・刀剣などの精緻な技法に驚嘆させられる。

 本館に向かって右側の東洋館の2階には、ベトナム陶器が並べて展示してあった。ベトナムに感心が高まっている最近の動向に対応した展示であるかのように思われた。

Dsc07262  ベトナム陶器については、次のように説明されている。

「ベトナム独自の特色をそなえた陶磁器が焼かれるようになったのは、李(り)王朝が建国された11世紀ごろであり、中国の影響の下に白磁や青磁が作られた。

 つづく陳(ちゃん)王朝時代には青磁、白磁、緑秞(りょくゆう)、鉄絵陶器のほか、独特の白秞(はくゆう)褐彩陶器が量産された。黎(れ)王朝の15世紀後半~16世紀がベトナム陶器の黄金時代である。青花(染付)、五彩(赤絵)の技術が完成し、量産されて輸出に向けられた。製品には中国の影響を強くみられるが、素朴で親しみやすい表現にはベトナム独自の特色があらわれている。」

 日本の国立博物館でベトナム陶磁器が展示されているとは意外であった。なお現在、骨董品としての陶磁器はベトナム国外持ち出しが禁止されている。 しかし、まとまった収集品を展示した博物館の所在を知らない。社会経済の近代化の推進と同時に、こういった文化財保護もベトナム政府の任務である。政府の力量が問われている。さらに、こういった分野での国際協力が必要なのかもしれない。

 戦争を誇りに思うベトナムには、次の段階で自国の文化財に誇りをもてる博物館が必要である。しかし前述の説明にあるように中国の影響が強いとなると、それを誇りにあまり感じたくないという事情があるのかもしれない。

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2006年3月23日 (木)

靖国神社・遊就館を訪問する

 小泉総理の靖国神社参拝がアジア外交の争点となって久しい。「靖国を見ずして、靖国を語るな」という意図で靖国神社と敷地内の「遊就館」を見学した。

 『やすくに大百科』という小学生向けと思われる小冊子にでは、「靖国の神々の御心をしのび、わが国の近代の歴史を正しく学びましょう!」と遊就館を紹介している。

Dsc07239  館内の入口左には、ゼロ戦があり、その奥には、沖縄戦で使用された長い砲身の大砲が空に向かっている。上記の小冊子によれば、ここには「靖国神社の神さまになられた戦没者のご遺品や戦争に関連した品々などが展示されてい」る。私見では、展示資料は、いずれも貴重な資料であり、日本における「戦争博物館」の役割を十分に果たしていると思われる。

 たとえば第2次世界大戦末期のロケット特攻機「桜花」や人間魚雷「回天」などは陰鬱な気分になる。「特攻」という勇ましい言葉の響きは良いが、あまりにも人命軽視の兵器である。

 また映像ホールでは、「私たちは忘れない!感謝と祈りと誇りを」とう50分間の映画が1時間ごとに上映されている。私の叔父はレイテ島で戦死・玉砕した。よく母から聞かされた憧れの人物である。戦没者として無条件に靖国神社に祭られているのであろうか。そういったことも想起しながら、戦没者の思いにふけった。

 この映画の中では、太平洋戦争(靖国では「大東亜戦争」と呼ぶ)が、やむにやまれぬ当時の状況で開始されたと説明されている。今から思えば、なぜ戦争したのかという批判も可能だが、当時の大多数の国民は、戦争やむなしという判断をしていた。また、日清・日露戦争によって正当に獲得した中国における日本の権益を守るために、さらにABCD包囲網を打破するために、やむをえず戦争したという論理を展開する。さらに真珠湾攻撃は、アメリカの挑発であったし、東京裁判は不当な裁判である。ここでは、戦争犯罪人と言われる人々は「昭和殉難者」とみなされている。

 靖国神社を訪問し、「日本は正しいことをした。日本は間違っていない」という論理は、このように展開されるのかと理解した。このような論理を信じておけば、確かに日本人として心休まる。自責の念や反省をする必要がないからである。しかしそれは、日本でしか通用しない論理である。

 「日本人なのだから日本の都合のよい論理を採用してよいではないか」という主張は、個人レベルでは容認されるが、社会や経済の発展という観点からは、もはや通用しない。アジアのみならず世界の中でしか日本の将来の発展はありえないからである。アジアの人々、世界の人々の観点から、日本の歴史の検証が求められる。そうでなければ、日本は鎖国化・閉鎖化を余儀なくされるであろう。自己中心的な主張をする国は孤立化する。他国から相手にされなくなる。これは個々の人間関係でも同様である。

 なお、靖国神社・遊就館の主張を虚心に受け止めれば、現在の日本の状況について、これまでの「英霊」に申し訳なく思うのが自然である。戦後60年以上も経過したにもかかわらず、「鬼畜米英」と言われた米国の軍事基地が祖国で大きな位置を占めている。祖国日本の領土を守るために命を投げ出された人々が、このことを快く思っているはずがない。このような発想や感情が、「自主憲法」の制定や防衛庁の「省」昇格といった動向の原点であろう。

 小泉総理の靖国参拝は、個人的な歴史認識の問題のみならず、米軍基地の移設や憲法改正といった現代的な課題に深く関連している。今日の政治的な争点の一方の基軸として、靖国神社の理念・思想・主張があるように思われた。

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2006年3月22日 (水)

築地市場と黒門市場:東京VS大阪

 築地(つきじ)は、東京の食を支えている。それと同時に日本を代表する水産物の集積地である。たとえば昨年、島根県で「活けガニ」を注文したが、そこでのウリは「築地にも卸していますが、そこでの価格は2倍以上です」というものであった。このように「築地」ブランドは日本全国に浸透している(http://www.tsukiji-market.or.jp/)。

 大阪には「大阪中央卸売市場」(http://www.city.osaka.jp/shijou/)がある。しかし観光地としては、大阪「南」の「黒門市場」が有名である。ただし黒門市場は、小売り・卸売りを兼ねた商店街である(http://www.kuromon.com/)。商店街と言えば、大阪が誇る「天神橋筋商店街」がある(http://www.coco.or.jp/tenjinbashi/)。天神橋商店街は、その距離が日本一と言われている。

  写真は、Dsc07210築地市場の一角である。アジアすべてに共通した市場の活気を感じさせてくれる。荷物を運ぶための独特の3輪車が行き交い、うろうろしているとぶつかりそうになる。競り(セリ)が行われる市場に隣接して、いくつかの商店街がある。卸売市場と商店街の一体化・連携が築地の特長である。商店街には「行列のできる鮨屋」が数店あり、さらに牛丼の「吉野家 」発祥の第一号店がある。こういった猥雑な市場と商店街の背景には、東京らしい高層ビルが青空の中に巨大な姿を見せている。このミスマッチな融合が東京または日本の魅力であると実感した。

 さて、このように説明すれば、東京・築地は、卸売市場と商店街が「築地」という名称で統合され、観光地としても流通市場としても全国的なブランドとなっている。これに対して大阪では、卸売市場と商店街が分離し、それぞれの商店街が独自に活性化のための創意工夫をしているように思われる。

 以上、社会風土または住民気質という観点から、中央集権的な東京と、民間主導の大阪という相違が見えてくる。高度経済成長期には、民間主導の大阪がより活力があったと思われる。その間にも東京では官民のより近い関係が維持されてきた。高度経済成長が終焉した今、大阪の民間活力も自然に衰退する。これに対して東京では官民一体となった勢力が健在である。ビジネスの情報や機会を取得するために、東京の一極集中が進むのは当然であろう。また、人口集積が人をさらに集めるのである。

 その東京が、石原都知事を中心にして、さらに規制緩和を推進しようとしている。規制緩和や経済特区は、大阪こそが強く要求し実現すべきことである。これによって民間活力の復活を期待する。大阪を歴史的に考えた場合、このような進路に必然性がある。それにもかかわらず、大阪市・大阪府の財政危機が進行し、その改革ばかりが注視されている。「小さな政府、規制緩和、民間活力」は、大阪こそが大胆に推進すべきことである。

 築地を訪問し、大阪に帰り、以上のようなことを考えた。さらに、築地市場に対して大阪中央卸売市場および黒門市場を比較分析する。日本の流通システムの研究テーマとして学問的にも興味深い。

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2006年3月21日 (火)

東京訪問(2)

 今日は、東京国立博物館と浅草寺を訪問して大阪に帰宅した。今回の上京は、妻の両親宅に家族で帰省することが目的であった。家族旅行なので、まったく私の仕事は含まれていない。

Dsc07196 帰省先の近所には、碑文谷病院がある。この病院は民主党の偽メール事件の永田衆議院議員が一時的に入院していた。政治家や有名人が事件を起こすと、ともかく入院して報道関係者から逃げることがある。この場合、大学病院などの大病院なら、それなりにカッコいいのだが、碑文谷病院は住宅地に位置しており、中規模な病床しかもっていない。

 この偽メール事件について言えば、常識から考えて、その主張の根拠となるメールの真偽を最初に確認することが当然である。これは大学生が卒業論文を書くときに、引用文献や参考文献を尊重することと同様である。単純な伝聞に基づく論文は書けないし、もし書くとしても、その事情を明記しなければならない。

 永田議員は東京大学の卒業である。その議員が、根拠のない伝聞を基礎資料として国会で質問した。いったい東京大学で何を勉強したのか。社会人になるためには大学で何を勉強したのかが重要である。偏差値の高い大学に入学することが目的ではない。彼は、その後に政府派遣の国費で米国の大学院に留学した。学問のためではなく、経歴のための留学であったと批判されてもしかたがない。

 Dsc07275_1浅草寺に向かって歩いていた時、「ご通行中の皆様にお知らせいたします。WBCで日本がキューバに10対6で勝ちました」というアナウンスがあった。これに対して周囲から拍手と歓声があがった。日本が世界一というのは、同じ日本人として悪い気がしない。自分が世界一なら、もっと嬉しいに違いない。

 今日は祝日であるから、浅草の仲見世通り商店街には日の丸の小旗が並んでいた(写真左)。日本野球が「世界一」になった瞬間にふさわしい雰囲気である。このような商店街に国旗の小旗が並ぶことは、私見では、あまり大阪で見ないように思う。ベトナムでは、祭日に国旗を掲揚することは普通のことであるが、日本では少なくなっている。ただし、それは強制されるべきではない。どのような場合でも強制や規制には、必ず反発・反感が伴う。

 

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2006年3月20日 (月)

東京訪問(1)

 東京は快晴。築地(つきじ)市場、築地小劇場跡、靖国神社、遊就館を訪問した。これは順次、写真を入れて紹介する。

 いずれも私は初めての場所である。築地市場では、美味しい寿司を食べる。築地小劇場跡では、かつての新劇のメッカを想起する。靖国神社については、韓国のノムヒョン大統領が遊就館を訪問したいと述べたことに対して、それなら事前に見ておこうという動機である。

 韓国にはソウル市内に軍事博物館があるし、チョナンには独立記念館がある。ベトナムにもハノイの軍事博物館、ホーチミン市に戦争証跡博物館がある。これらを私は訪問したことがあるが、日本に「軍事博物館」があるとは聞いたことがない。ただし「遊就館」の案内書によれば、「明治15年わが国最初で最古の軍事博物館として開館した」と説明されている。

 日本にも「軍事博物館」があったのかと改めて感心するが、果たして現在の遊就館が軍事博物館といえるのかどうか検討の余地がある。軍事博物館といえば、現在なら防衛庁・自衛隊が運営に関与して当然と思われるからである。

 ところで、このブログは今日で101回となった。読者の平均は毎日40人を超えている。読者を増やすように内容の改善に努力したいと思う。

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白石太良教授の「共同風呂」

 3月19日(日)、兵庫農業会館において、流通科学大学・サービス産業学部・白石太良教授の最終講義があり、その後に国指定重要文化財に指定されている「旧居留地十五番館」で送別パーティーがあった。

 Dsc07154 白石教授は、大阪市立大学大学院を卒業され、流通科学大学の開学(1988年)以来、ご専門の経済地理学に関する講義を担当された。退職される今年までに図書館長・副学長を歴任されて大学の発展に貢献された。

 最終講義のテーマは、「共同風呂と地域のかかわり」であった。先生が最近に研究されている「共同風呂」について、その研究の集大成を2時間に渡ってお話しされた。出席者は流科大の教員のみならず、幅広い大学や年齢層の人々であり、さらに学生の出席が多いのに驚かされた。そのゼミ生10名が全員、卒業論文を提出したそうである。「本のまる写しではダメだ。自分で調べたことを書きなさい」と日常から指導されていたとのことである。厳しい指導にもかかわらず、ゼミ生から敬愛されるのは、まさに白石先生のご人徳である。先生のお人柄を反映して、義務や打算に基づく出席ではなく、心のこもった人々が集まったように思われた。久しぶりに暖かい至福の数時間を過ごすことができた。

 先生は、一般の人々の生活環境に目線を置いて現代社会を検討されている。この一貫した問題意識の中から、その一つのアプローチとして「共同風呂」という研究対象に着目された。現代の経済・社会現象は、ホリエモン事件に関連する報道からも理解できるように、企業側の利益追求の視点から描かれることが多い。これに対して白石先生は一般庶民の生活の視点を強調される。その立場から見えるモノの典型・象徴として、かつて日本の農村部で見られた「共同風呂」という庶民生活に極めて密着した事象が注目される。

 日本人の生活=暮らしを考える場合、入浴という習慣・慣行は不可欠である。その中で「共同風呂とは、主に農村地域において、集落内の何軒かの家が仲間を組織し、共同の浴場を設け、湯沸かし作業の交代制などの協力関係を維持することによって、仲間の家族全員が日常的に入浴した風呂をいう。形態からは銭湯に類似するが、毎回の入浴に対して入浴料を徴収しない、当番制のような自主的な維持・管理が多い、入浴者が特定のものに限られるなどの相違点がある。また、用水や燃料の確保、釜焚き労働が必要なことから温泉地の共同浴場とも異なり、さらに、日常生活のなかでの入浴である点で宗教行事としての風呂とも違っている」。通常、かつての日本では農村部に限らず「もらい風呂」が普通に行われていたと思われるが、それとも「共同風呂」は相違している。

 以上は、最終講義時に配布された小冊子・白石太良『日本の共同風呂』平成18年3月に依拠している。この小冊子は、白石先生が受給された日本学術振興会・科学研究費補助金の研究助成の成果の一部である。

 「共同風呂」は、簡単に言えば、近隣の住民が共同で裸のつき合いをするということである。上記の小冊子の中にも書かれているが、男女混浴もあったそうだが、そうだからといって不道徳とは考えられていない。古き良き時代のおおらかな農村生活を想像できる。それは、貧しいけれども、お互いに助け合って生活し、文字通り肌と肌を触れあう家族のような慈しみ合う生活である。

 現代日本の「ストレス社会」において、家族ですら、その絆が疎遠になる時代である。このように考えれば、上記の「共同風呂」生活は夢の世界である。この研究テーマを選択された白石先生は、このような現代社会に対する無言の抗議をされているのではないか。古き良き時代の風景を夢想される特上のロマンティストではないか。三宮から帰宅途中に私はこのように思うようになった。なぜなら私にとって「共同風呂」と同じ役割を果たす研究テーマがベトナムであり、ラオスであり、そしてアジアの人々だからである。今後の白石先生のご健康とご発展をお祈りしたい。

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2006年3月19日 (日)

大変なこと

 人間は「大変なこと」に遭遇すると、過度な場合はストレス・パニックになることもあり、何らかの精神的・心理的な動揺がある。同時にそれを乗り切れば、大きな自信になったりする。ただし、このような「大変なこと」の認識の程度には個人差がある。

 たとえば小学生がひとりで東京の親戚に会うために神戸から新幹線に乗る。おそらく本人にとっては「大変なこと」であって、興奮もするのだが、大人から見れば、子どもの成長過程のカワユイ出来事である。大人の立場から暖かくほめて、本人に自信を持たせるのが普通の対応である。

 大学生や社会人になっても同様のことがある。自分が「大変なこと」をしたと思っても、周囲が評価してくれないことがある。これは個人的に「大変なこと」と思っても、一般には特別なことではないのである。新人が1億円の取引を成功させても、それは本人にとって感激であるが、先輩から見れば普通のことである。「どうして評価されないのですか」と問われても、それは当たり前のことを当たり前にしただけだから評価されない。甘やかされた若者の中には、これに不満をもつ人も多いのではないか。

 大学生や新人社会人の時代、自分で「大変なこと」に積極的に挑戦してほしい。その経験が、将来の自分のためになると思う。「大変なこと」が大変でなくなる。また、何が「普通のこと」で何が「大変なこと」なのかを自分で判断できるようにしてほしい。

 たとえば毎年、ラオスで清掃ボランティア活動を私は指導している。初回には学生と一緒に在ラオス日本国特命全権大使・橋本さんにお目にかかり、ピッサマイ科学技術環境庁長官と一緒に清掃活動にも参加していただいた。普通の感覚なら「大変なこと」なのだが、同行した学生はそれが認識できなかったかもしれない。昨年までダイエー創業者・中内功氏(流通科学大学・前理事長)が、学生の求めに対して気楽に握手や写真に応じていた。これは「大変なこと」だと思うのだが、それを当然に感じている学生も多かった。中内氏の亡き後、もう今や永遠にそういうことは不可能である。このような「大変なこと」を若い人は正当に評価しなければならない。

 中内功氏と私は個人的に話す機会が何度かあった。前JR西日本会長の井手さんとも親しく話す機会があった。こういう著名な経営者と話した最初は、20数年間の住友生命会長・故・新井正明氏であった。当時の私にとって「大変なこと」であって非常に緊張した。しかし当時、勤務先の日本証券経済研究所・故・熊取谷顧問が、「君も専門家として仕事しているのだから、自信をもって話しなさい」と助言をくださった。lこの言葉は忘れられない。それ以降、このようなエライ人との面談はあまり「大変なこと」ではなくなった。

 「大変なこと」を契機にして自分が成長する。この意味で、常に前向きに積極的に「大変なこと」に挑戦したい。これは「いつまでも若い」と言われるための秘訣ではないか。また「大変なこと」が大変でなくなるように努力したい。人間、死ぬまで不断の成長が重要であると思う。

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2006年3月18日 (土)

ガンバ大阪VSダナン(ベトナム)サッカー試合

 3月22日(水)に万博記念競技場でガンバ大阪とダナン(ベトナム)チームのサッカー試合が開催される。19:00にキックオフ。BS朝日で18:55から放映される。http://www2.ocn.ne.jp/~a-net/gambaacl.htm

 アジアサッカー連盟(AFC:Asian Football Confederation)の東ゾーングループに所属する両チームの対戦である。5月17日(水)にはダナンスタジアムでの試合が予定されている。

 日越経済交流センターでは、1999年6月に関西4チームの若手選抜チームをベトナムに派遣したことがある。この時の監督は、その後にセレッソ大阪の監督になられた副島さんであった。ハノイではハノイ公安、ホーチミンではベトナムのナショナルチームと対戦した。いずれも日本が勝利したが、ナショナルチームの善戦と圧倒的なアウェイの観客に日本の若手チームはタジタジであった。

 2003年は横浜FCが23歳未満ベトナムチームとハノイで引き分けた。これはベトナムチームの実力向上を感じさせた試合であった。ベトナム経済の成長に対応するように、着実に体力と技術が向上している。ベトナムでサッカーは国技に近い人気であるから、海外遠征や外国人の監督やコーチに資金が惜しみなく投入されているからである。

 私も何度か遭遇したが、かつてのエースストライカーのドック選手やソン選手は、ベトナムの英雄のような存在であった。ソン選手は間近で会ったが、180㎝前後の長身で、いわゆる「かっこ良い」選手だった。後からサインをもらっておけばと後悔した。

 3月22日にはBS朝日で観戦したいと思う。またビデオに撮って、ダナンの友人のお土産にしたい。ところで今日のような寒い雨の天候で試合開催となれば、ベトナムチームには大きなハンディである。反面、5月17日のダナンでの試合は、暑さや芝生の状況の相違によって日本チームにとって悪条件であろう。

 なお日本チームはプロであるが、ダナンチームの選手は別に職業をもっているのではないかと思う。確かプロチームはなかったように思う。近い将来、ちょうど野球における日本と韓国のように、格下と思われていたベトナムが日本に勝利する日が来るかもしれない。いずれにせよ、日本とベトナムの友好親善の拡大に貢献することを期待したい。

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2006年3月17日 (金)

また今日もベトナム研修

 昨日に続いて今日も、PREX((財)太平洋人材交流センター)が実施機関となった「JICAベトナム人研修」の最終講義を担当した。茨木市にあるJICA大阪国際センターが会場である。

 この研修は、ハノイとホーチミン市にある「日本センター」ビジネスコースを受講した企業経営者・経営幹部の中から成績優秀者10名を日本に招待し、日本企業の「生」の経営を見聞してもらうという内容である。そのことを通して、ベトナムの市場経済化および企業経営の効率化を促進するという目的である。

 私はこの研修で、「日本および日本企業から大いに学んでほしいが、かつての日本と現代のベトナムでは状況が違う。ベトナムには時間の余裕がない」ということを強調した。日本の「資本自由化」は1965年前後から始まっているが、その後の外国企業に対する市場開放は徐々に進行していった。これに対してベトナムでは、市場開放が一気に急激に進められようとしている。これは大野健一教授(政策研究大学院大学)も指摘している。

 ベトナム人研修生にも、この指摘が印象的だったという感想が多かった。さらに「ベトナムに帰り、まず自分自身の意識を変える。そして中間管理職を変えて、次に会社全体を変える」という決意を述べる研修生がいた。まさにこれが、この研修の期待される成果である。

 さらにコメントとして、企業変革を成功させようと思えば、経営トップが「思いきって本気で取り組む」ことが重要だと私は述べた。これがリーダーシップである。「思い切って本気」でない改革などありえない。それを苦しくてもやり通すことが、経営トップの使命である。

 また研修生の大部分が感心したのは、松下電器グループ創業者・松下幸之助氏の経営哲学・経営理念である。研修生からは、松下幸之助氏についてのDVDやビデオが欲しいという要望が強かった。研修先の「松下電器歴史館」(http://panasonic.co.jp/rekishikan/index.html)を訪問した影響である。この松下氏に限らず、戦後の経済成長を牽引した日本企業の経営者には、きら星のような人々がいた。ソニーの盛田昭夫氏、経団連会長の土光敏夫氏、さらにダイエーの中内功氏もそうである。こういった人々を紹介することも、ベトナム経済成長に貢献すると思われる。

 ベトナムにおける最も人気のある経営者は、おそらくマイクロソフトのビル・ゲイツ氏であろう。憧れのサクセスストーリーの主人公である。しかしベトナム人は、かつてのNHK朝のTV番組「おしん」が圧倒的に支持を得たことからも想像できるように、苦労をしながらもそれを克服し、最後に成功してハッピーエンドになるというストーリーにより以上の共感を覚えるのではないか。まさに松下幸之助氏が、そのような人物の典型である。日本企業の経営者を紹介することの影響と意義は大きいと判断される。

 今回の研修生とは、なぜか気が合った。気持ちのよい講義である。今後、ベトナムで会いましょうといって手を振って別れた。彼・彼女らの中から、ベトナムの松下幸之助が現れることを期待したい。

 

 

 

 

 

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2006年3月16日 (木)

ウソでもうれしい:ベトナム研修

 本日、神戸HAT(Happy Active Town:神戸市東部副都心)の「JICA兵庫国際センター」(http://www.jica.go.jp/Index-j.html)において実施された「ベトナムビジネスコース研修」の最終講義を私が担当した。

 ベトナム貿易大学敷地内にある「ベトナム日本人材協力センター(略称:日本センター)」の講師6名に対するJICA研修である。なお、この実施機関はPREX((財)太平洋人材交流センター:http://www.prex-hrd.or.jp/)である。 

 2月19日の来日から3月18日の帰国まで、約1ヶ月間に渡る研修において、日本の特に中小企業の政策・経営理念・経営管理・」生産管理を学ぶことが目的である。研修生は貿易大学の副学長・前学長を含む先生であるから、「日本センター」のビジネスコースの社会人受講生や大学生に対する影響力は大きい。日本研修に対する印象が「スゴイ」か「ツマラナイ」かでは、日本とベトナムの友好関係の将来を左右する。

 幸いなことに、PREXによる研修プログラムに全員が満足した。東京で体調を崩した研修生1人に対する日本人の気遣いにも全員が感激した。休日に訪問した京都では、日本の伝統や文化の一端に触れて全員が親近感をもった。先端技術は大企業の独占と思っていたが、中小企業も優れた技術水準をもっていることに驚嘆した。

 研修生全員が以上のように満足してくれたことについて、研修の一端を担当した私も充実感をもった。特に次の感想は、ウソでも感激である。

 「日本に来るまで私は砂漠の中をさまよっていました。しかし日本で研修を受けて、私は大きな川を見つけた気分です。特に上田先生の側にいれば、私は水だけで生きていけるるように思います。東京に行くときに富士山を見ることができました。しかし私にとって上田先生は富士山より大きい存在です」。これだけの賞賛は、私の50年間の人生の中で初めての経験である。ウソでも嬉しい---。

 ただしこれは、ベトナム人固有の冗談のネタに私が使われたとも思う。ベトナム人と話していると、常にジョークが含まれている。まじめな話と思っていると、その中に笑いが仕込まれている。たとえば「私はフォー(ベトナム風うどん)が好きだ」と言う。これは「私は主食のご飯よりも副食のうどんが好きだ」という意味である。さらに発展して「私は正妻よりも愛人が好きだ」という意味になる。「あなたはベトナム料理で何が好きか」と質問されたら、こういう含意もあるので注意である。私はまじめに「ブンチャー(ベトナム風つけ麺)」と答えているが、おそらく相手は笑えなくて少しがっかりしていると想像される。

 気のきいたウィット(笑い)を含む会話がベトナムでできれば、その人は機知のある人として尊敬されるように思われる。これは言語能力の問題ではない。会話相手に対するサービス精神なのである。ベトナムから学ぶことは多い。

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2006年3月15日 (水)

ベトナム子ども達の絵画

 ホーチミン市の観光名所となっている「戦争証跡博物館」が新装され、大きな展示館が建設された。2階の方には上れないようなのだが、さらに展示場が増えるのかは不明である。

 ここにベトナム人小学生・中学生の絵画が展示されている。今年1月の訪問時にゆっくり見る時間がなかったが、先日の「日本ベトナム友好協会」の関西地区の集会で、その全作品を収録したCDを購入することができた。昨年に大阪で開催された「ピースアート展」に展示するためにベトナムから大阪に輸送された時に撮影されたものである。

0501  主催者(大阪府連合会)の許可によって、その作品の1枚を紹介する。作者は14歳のロックさんである。背景には、巨大な爆撃機が墜落し、その前でベトナム人女性が懸命に稲刈りをしている。真ん中の女性は、意外にも明るい表情で汗をぬぐっている。青空には、遠くを飛行中の爆撃機5・6機が小さく描かれている。明るい色彩を全体に使っているだけに、大地に突き刺さる真っ黒な巨体が不気味である。

 当時の男性は戦士として働いたから、女性が家庭や農地を守ることが多かった。これは今でも続いているようである。昼間からコーヒーを飲んで談笑しているのは男性である。それはさておき、この絵から、ベトナムにおける女性のたくましさ、農民の勤勉さ、明るい労働の雰囲気を感じることができる。

 それだからこそ、墜落した爆撃機で表現される戦争の不安や危険が対照的に強調されている。このような具体的な描写で戦争と平和を描くことは、おそらく日本人の同世代の子どもには無理であろう。ベトナムの初等・中等教育において、しっかりと自国の歴史が語り継がれていることがわかる。何と言っても、ベトナム近代史は栄光の独立戦争の歴史である。政府が歴史教育に熱心なのも当然であろう。

 ただしベトナムの若者との交流において、彼・彼女らは自国の歴史を知らないと嘆く日本人も多い。こういった日本人は「ベ平連」などに関係したベトナム反戦運動の世代である。日本の米軍基地からベトナムに爆撃機が出撃し、日本が海兵隊の補給基地の役割を果たしていた。ベトナム人の殺害に日本も間接的に関与していたのである。北爆が開始された1965年当時、私は小学生であったが、戦争反対を訴えた作文が今でも手元に残っている。

 大阪府連理事長・桃木先生(大阪大学教授)の話によれば、入学試験に出題されるからベトナム史をベトナム人青年は熱心に勉強するが、それが終われば、忘れてしまう傾向があるということである。確かに歴史を勉強しても、ITや英語のように就職に有利にならない。現代の若者気質は日本もベトナムも共通しているように思われる。

 今年夏にも大阪で第2回「ピースアート展」が開催されるそうである。日本とベトナムの子ども達の絵を通して、戦争と平和を考え直すきっかけになればと思う。

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2006年3月14日 (火)

卒業式

 勤務先の大学の卒業式と、私の子どもの中学校の卒業式であった。いずれも「子ども」の卒業式であるが、勤務先の大学に優先して出席せざるをえない。

 会場となった神戸ポートピアホテルは、これまで流通科学大学の入学式・卒業式では一度も使用したことがなかった。三宮のポートライナーでは多数の学生でにぎわい、切符を買うにも行列という状況であった。通常に使用している新神戸オリエンタルホテルや西神中央オリエンタルホテルでは経験しなかった。

 卒業式の後には「卒業パーティ」が続く。私の学生時代は「謝恩会」と呼ばれていたが、それを私の指導教員は「忘恩会」と皮肉っていた。食事と飲酒をして友人や教員に挨拶して、これまでの「恩」をきれいに洗い流して、新しく社会人になる。ああ、すっきりした。こういう意義も卒業式や卒業パーティにはある。

 私見では、卒業式も卒業パーティも儀式である。その意図や思いは各自でさまざまであるが、そういった行事を経過しないと、次のステップに向けて頭を切り替えできない。このような「通過儀式」は、葬儀も同様である。これについては以前に書いたことがある。

 卒業もしくは修了の次は、連続して新しい出発である。まさに卒業式は、同時に出発式(the commencement)である。卒業生の将来に期待したいと思う。 ともかく「若い」ということは、体力的に無理ができるし、時間的に余裕がある。自己の能力も十分に開発余地がある。

 中内潤理事長が「成功しようと思うのではなく、一生懸命やろうと思え」と卒業生にメッセージを送ったが、確かに至言である。自分の体験から考えても、若い時には成功しようというよりも、当面の仕事や任務に無我夢中であった。一生懸命やれば、その後に結果は自然に付いてくる。卒業生の今後の研鑽に期待したい。私も、同じ社会人になった卒業生に意欲や気力だけは負けないように気合いを入れたいと思う。

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2006年3月13日 (月)

推薦状

 ある学生の奨学金受給申請のための推薦状を書いた。この推薦状、そもそも推薦に値しない学生の場合、それを書くことを承諾しない。したがって、その内容に悪いことが書かれることはない。

 そうであるとすれば、果たして推薦状に意味があるのだろうか。奨学金だから、生活条件の悪い学生(所得水準)と成績優秀な学生を客観的に数値化し、その順位で給付者を決定すればよいのではないか。現在でも、このような方法が採用されていると聞いてはいるが、それならなぜ推薦状が必要なのであろうか。

 外国人が来日する場合、外務省または法務省は保証人または保証機関を要求することがある。その文面は既定であり、その最後にサインをすればよい。奨学金の場合も、同様の方法を採用すればよいのではないか。

 「奨学金を有効に使用することを指導・監督します」といった文章の最後にサインまたは捺印すればよい。こういった方法の方が、推薦状よりも簡単で客観的であると思う。

 推薦状を執筆する先生の所属や職位が、旧国公立大学の場合、有名私立大学の場合、教授と助教授の場合、TVなどの出演する有名教授の場合、これらに格差・相違・差別はないのであろうか。申請する学生もこのことを不審に思っているのではないか。

 より透明性のある説明責任を果たせる奨学金の選考方法が再検討されてもよい。

 

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2006年3月12日 (日)

日本ベトナム友好協会・講演会開催

 本日、午後1時から4時まで、兵庫勤労市民センターで「昼下がりの講演とフリートーキング」という講演会が開催された。日本ベトナム友好協会・京都府連合会・大阪府連合会・兵庫県連合会の共催である。私は、前半の講演で「最近のベトナム経済事情」というテーマで話をした。

 日本ベトナム友好協会は、1955年に結成されたというから今年で51年目になる。その間、ベトナム戦争(=ベトナム人は「アメリカ戦争」と呼ぶ)ではベトナム人民の支援活動を行った。ベトナム側にもベトナム日本友好協会があり、日本とベトナムの友好関係を促進するために毎年、さまざまなイベントを開催したり、ベトナム語講座を開講したりしている。http://www2.odn.ne.jp/vnpage/index.htm

出席者は30名であったが、ベトナムに関心のある方々ばかりで、思い切り遠慮なくベトナムの話ができるという楽しみを味わった。大阪府連からは理事長の桃木先生(大阪大学教授)、兵庫府連からは理事長の藤田先生(神戸大学教授)も出席され、さらに名古屋からの参加者も数名あるなど、人数は多くなかったが、内容の濃い時間を過ごすことができた。

 私は、これまでの外資導入の経路(貿易・直接投資・外国送金・観光)に加えて、間接投資(=株式投資)の時代が到来したことを強調した。この直接金融(=新株発行に伴う資金調達)によって、ベトナム企業は多様な資金調達が可能となる。特に株式公開によって、国営企業の経営効率化と経営の透明性や説明責任について、経営者の意識が高まることが意図されている。

 後半は「今、なぜ友好か 友好運動への期待」というフリートーキングであった。特に大阪府連では、昨年の「ピースアート展」の試みが紹介され、今年も第2回目の開催が予定されていると桃木先生が報告された。ホーチミン市の戦争証跡博物館には、ベトナム人小学生の描いた「平和をテーマにした絵画」が展示されている。この150点を日本に運び、日本の小学生の描いた同じテーマの絵画と一緒に展示するという試みである。日本の小学生の「平和」の絵画は、友達とか友情などを表現しているが、ベトナムの小学生の「平和」の絵画は、両親が戦争体験をもっていたり、自国の誇り高い歴史に関する熱心な学校教育を反映し、より具体的で深みのある表現がなされていると言う。

 日本ベトナム友好協会に加入すれば、次のようなメリットがある。①毎月1回のベトナム情報を掲載した新聞を読める。②友好協会が企画するユニークなベトナム旅行に参加できる。③ベトナムから来日するベトナム代表団と交流できる。④在日ベトナム人・留学生と交流できる。⑤ベトナム語を学ぶことができる。⑥より深くベトナムを理解することができる。現在の会員数は千人弱だそうである。友好協会はベトナムとの関係を維持している最も長い歴史をもった団体である。ベトナムとの関係を幅広く深めるために多数の人々の入会が期待される。

 なお今年は「ドイモイ開始20周年」である。ドイモイ(刷新)とは、1986年12月に第6回ベトナム共産党大会で採択された「市場経済化、経済開放」を趣旨とした改革政策の総称である。ドイモイが始まって20年、ようやく前述の「株式投資」の段階にまで到達したのである。ちょうどこの時期に桃木先生は留学されていたそうである。昨年の日本人ベトナム訪問者数は30万人だそうであるが、20年前は700人。ハノイ在住の日本人は現在1800人であるが、 当時は大使館員を含めて30名だったそうである。国際電話はモスクワ経由、実勢の為替レートは1ドル=500ドンだったそうである。

 友好協会の人材とノウハウを結集すれば、さらに様々な活動が可能であると思われる。ますますの発展を期待したい。会員のひとりとして尽力したいと思う。

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2006年3月11日 (土)

人間不信のビジネス

 ビジネスは信用が大切だと言われている。では信用とは何であろうか? 信用できる人間と信用できない人間の相違は何か?

 私の場合、時間や時刻について信用してもらっては困る。よく遅刻することがある。しかし「お金」についてはキッチリしているかもしれない。この意味で「お金」をもらう講義やセミナーでは、たとえば自動車事故発生に伴う交通渋滞といった不可抗力な原因以外は、ほとんど遅刻したことはないと思う。

 学生は信用できるか? 学生に貸した本やデジカメが未だ返却されていない。もう何年もなる。最初は返却を催促していたが、いろいろ事情もあるのかと思って、そのままになっている。このように考えると、あまり学生は信用できない。こういう先輩がいると、後輩が迷惑する。先輩のおかげで、何の罪もない後輩が信用されない。

 しかし教育ということを考えれば、学生を信用できなくても信用しなければならない時や場合がある。そもそも教員が学生を信用しなくては、学生も教員を信用しない。これでは教育それ自体が成り立たない。教員は、一方的に学生を信用してやらなければならないこともある。教育もビジネスと同様に信用が大切である。

 通常、ビジネスでは信用を前提に成り立っていると言っても、やはり初対面では信用できない。そこで契約書を書く。お互いに契約書を遵守するという信頼関係のもとでビジネスが行われる。いくら契約書を交わしたからと言っても、次の懸念は相手が逃げることである。たとえば100億円の取引契約をして、100億円を相手が持ち逃げしないかという問題である。持ち逃げしないという前提で契約するが、この持ち逃げを心配すれば、そもそも契約が煩雑になる。

 ある日本人経営者が次のように述べていた。「中国で日本企業はよくだまされるが、韓国企業はそれほどでもない。その理由は、日本企業の経営者が中国人を信用するからだ。韓国企業の場合、韓国人も中国人もお互いに信用していない。だから失敗は少ない」。「私は君を信用していない。君も私を信用する必要はない。しかしお互いの利益のために仕事したい。そこで厳密な契約書を相互に納得するまで作成しましょう」。このようなビジネスの進め方をしているのであろうか。これは当然のことである。双方が納得するまで契約書に条件を書き入れる。

 ベトナムで日本人がだまされることがある。ある日オフィスに行ってみると、パソコンから事務用品まですべてが持ち逃げされていた。これはホーチミン市の実話である。ここでは色恋い話とビジネスが混在したトラブルが頻発しているそうである。愛人のベトナム人名義でアパートを買って、そこで老後を過ごそうと思っていたら、その資金を持ち逃げされたり、ベトナム人男性からお金を要求されて拒否できない日本人女性がいたり、色恋い話に金銭トラブルはつきものである。

 こんな話を聞くと、本当にベトナムでビジネスができるのか心配になってくる。信用できる人間、しかも信用できる外国人の見分け方は難しい。結局は、上記のような詳細で厳密な契約書の作成以外に、だまされないための方法はない。

 信用するということは教育ではありえても、ビジネスではありえないと考えるべきであろう。教員がビジネスで失敗することが多い理由は、この点であると思う。たとえば大学教員が実際にビジネスで成功する場合は、周囲が祭り上げる御輿(みこし)の役割を果たす時だけのような気がする。人間不信を基調にしたビジネスと、人間信頼を基調にした教育は両立しないと考えられる。この両者を峻別できる能力や経験をもった教員がいれば、それはかなり希有な存在である。 

 

 

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2006年3月10日 (金)

ベトナム・インド・日本の創造的提携

 ベトナム人友人の子息がバンガロールの大学を卒業し、昨年からハノイの台湾系IT企業に就職している。友人は次のように述べていた。「本音を言えば、米国や日本に留学させたいが、そうするほどの資金的な余裕はない。しかしインドなら留学させることができる。学費も生活費も高くない。インドに留学すれば、世界でトップクラスのITと英語を同時に格安で勉強させることができる」。友人はベトナムで中流以上の生活水準である。

 今回にインドを訪問して、以上のような個人的なインドIT留学の実例を一般化・組織化して、ベトナム・インド・日本を結ぶビジネスプランができないかと考えた。「ITと英語を学ぶ」ことが、これからのビジネスパーソンに不可欠ということを流通科学大学創設者・故・中内功も強調していた。この事情はベトナムでも同様である。ITと英語ができれば、一般よりも高収入がベトナムでもインドでも日本でも期待できる。

 そこでまず日本企業がベトナムとインドに進出する。ベトナム人とインド人の優秀なIT技術者を採用する。彼らに日本語を教育する。このために日本人社員を派遣する。少し英語が得意な写真はインド派遣、英語は苦手という日本人社員はベトナムで日本語で通す。

 この場合のベトナム人とインド人の共通言語は、英語と日本語である。ベトナム人とインド人をIT・日本語・英語教育のために数名を相互に乗り入れさせる。それぞれの語学力と実務能力を向上させる。これら両方の人材が育ってくれば、この在ベトナム日系企業は、日本のみならず欧米企業をも顧客とするオフショア生産事業やソフト開発事業をベトナム・インドで受注できる。

 この場合、インドIT企業では日本語ができるインド人技術者が不足している。インド企業との提携・協力をすれば、投資コストは大幅に削減できる。より具体的には「日本部門」として、インド企業内の1部屋や設備を無償提供してもらう。今回のインド訪問では、このような提案をする企業が実際にあった。

 日本人の新卒学生1名分で、優秀なベトナム人・インド人が5名~10名は採用できる。こういった人材を活用できるかできないかで、企業の存続が左右される時代が来ている。このビジネスモデルの要点は、ベトナムとインドの架け橋として、日本が両者を調整・統制できるかどうかである。日本人の国際性が問われている。

 このモデルの最大のメリットは、ベトナム・インド両国の対日感情が極めて良好なことである。ベトナム・インド・日本の協力と連携で新たなビジネスモデルを創造する。私は実現可能であると思う。

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2006年3月 9日 (木)

インド流「継続学習」の必要性

 バンガロールでインド科学研究院(Indian Institute of Science)を訪問した時、「継続教育センター」(Centre for Continuing Education)の担当者から説明を受けた。いわゆる「生涯学習」のための教育機関がインドにも設立されている。同センターの小冊子には次のように書かれている。

 「科学技術の急速な発展によって、専門教育が単一分野の延長に限定されるのではなく、むしろ全キャリア(職歴)に渡って継続されることが不可欠になっている。必要なことは、生産活動に従事する間の仕事と教育の統合である。それは、新しい需要に対処するのに役立つ。------継続教育(CE)は、専門の特化された知識を刺激・更新するだけでなく、それに関連分野の知識も拡大する」(Information Brochure:CCE, August, 2006, p.1, )。

 「中国+ワン」としてインドを考えると、インドは発展途上国という印象をもってしまうが、これは先入観に基づく誤解であった。インドは核保有国であるし、複数のノーベル賞受賞者を輩出している民主国家である。近年注目されるIT産業の発展の基盤として教育を重視する社会風土がある。このような背景があってこそ、上記の継続教育(CE)が強調されていると考えられる。

 現在、就職活動をしている新4回生にとっても、また卒業生にとっても、生涯学習(インド流・継続学習)は不可欠である。その理由は、まさに上述の通りである。さらに理由を考えれば、あまり最近は見かけないが、かつては色紙などによく書かれた言葉、「知は力」および「継続は力」である。

 この場合の「力=チカラ」とは、様々な意味があるが、その中のひとつは「お金」であろう。一般より以上の知識があれば、それが「お金」になるし、継続した経験・体験を通した一般より以上の熟練は、それも「お金」になる。この両方を統合して、「継続した知識の学習」は「お金」になる。これこそ最初に指摘した「継続教育」が、自分の職歴を通して必要な理由である。

 ここで「お金」というと抵抗感をもつ人もいるだろう。勉強・学習は「お金」のためではなく、生き甲斐・自己研鑽・教養のためにするという見解がある。勉強・学習それ自体が目的である。確かにそういう考え方があってもよい。しかし、いくら知識を学んでも、それだけなら自己も社会も生活も変化しない。その知識に基づいた行動・実行が伴ってこそ、学ぶことに意義がある。これが「実学」である。学んだことを実行する。何のために? お金、自己変革、社会変革などその目的は様々である。

 世の中には「知らないで損する」ことが多い。まさに「知は力」である。さらに知識が陳腐化しないために「継続学習」が必要である。そのことで「知は力」であり続ける。

 

 

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2006年3月 8日 (水)

就職面接は「失敗」と「お笑い」で勝負

 25年前にネパールでエベレスト(ネパール語でサガルマタ、中国語でチョモランマ)を見た。20年前にナイアガラの滝を見た。10年前にベトナムでメコン川や南シナ海を見た。兵庫県洋上大学セミナーでは、インド洋上でクジラとイルカの遊泳を見た。そして先週にインドではアラビア海を見た。

 これらは単に「見た」だけの話であるが、その後に精神的な余裕がもたらされたようである。日本での個人的な問題や悩みが些細なものに思えてくる。雄大な自然が何らかのパワーを人間に供給してくれるのかもしれない。これは、私にとっての「ネアカ のびのび へこたれず」の原動力のひとつである。(注:「ひとつ」であって「すべて」ではない。)

 最近では、大学生の海外旅行が当たり前になった。しかし以上のような「パワー補給」を必ずしも大学生は目的としていない。経済活動がグローバル化しているのだから、その活動の担い手である企業に就職する学生も、グローバル化に対応しなければならない。そのほうが就職に有利になる。このように考える学生が一般的であろう。そこで採用面接では「海外ネタ」が多種多様に語られることになる。

 海外語学研修に参加しました。××大学に単位互換で留学しました。海外ホームステイを体験しました。海外ボランティア活動をしました。海外インターンシップ(企業実習)をしました。海外の企業調査をしました。バックパッカーとして海外エコツーリズムを経験しました。ゼミ旅行で外国大学生と交流しました。ホノルルマラソンを完走しました。趣味は海外旅行です----ーー。

 海外旅行を話題にした以上のような「セールス=トーク」の中で、いったい何を強調すればよいのであろうか。「語学力」または「コミュニケーション能力」が身についたといったことは、当たり前すぎる。就職後に「激務」が待っていると想定すれば、それに精神的・肉体的に耐えることができると採用担当者に思わせるような「ネタ」が望ましい。それは何かと考えれば、「失敗ネタ」・「お笑いネタ」であろう。

 パニックに陥った失敗。今だこそ笑える失敗や勘違い。エライ目に遭った話。これらの具体的な話をして、「それを何とか無事に乗り越えて自信がつきました。これからの自分は、どんなことがあっても冷静に余裕をもって対処できると思います」というセリフで締めくくる。海外旅行で失敗はつきものである。その失敗を語ることはマイナスではない。その失敗を克服したことをアピールする。失敗を無事にやり過ごしたことが、精神的な自信や余裕になったことをアピールする。

 私の場合、思いつくだけでも次のような海外での失敗がある。旅行カバンの紛失1回、メガネ紛失で目が不自由1回、航空機の運休で足止め2回、タクシーでの道順トラブル2回、財布の紛失1回、携帯電話の盗難1回、旅行カバンに下着を入れていなかった1回、携帯電話の充電器をホテルに忘れた1回、航空機に乗り遅れそうになって滑走路を自動車で送ってもらった1回、引ったくり被害でパスポート紛失1回(同行の知人)、パスポートをホテルで取り違えた1回(同行の知人)、下手な英語スピーチで恥をかいた多数------。いろいろ経験すると、もう少々のことでは驚かない。

 「失敗は成功の母」? 失敗を堂々と語って、大物らしい余裕を見せる。果たして面接トークとして成功するかどうか新4回生は試してみてください。

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2006年3月 7日 (火)

ベトナム「流通革命」の担い手

 昨日、大阪市港区のPREX((財)太平洋人材交流センター)において、JICA支援によって来日したベトナム人経営者10名の研修が開始された。研修生それぞれの日本での研修テーマについて助言したり、最初の質問や疑問に答えたりするのが私の仕事であった。

 日本PhotoのODA(政府開発援助)資金によって、ハノイとホーチミン市の貿易大学敷地内に「ベトナム日本人材協力センター」(略称:日本センター)が設立されている。そこでは日本語コースとビジネスコースが開設され、常駐の日本人専門家が、それぞれのコースをベトナム人のカウンターパートと協力して運営・指導している。写真はハノイの「日本センター」。5月に訪問したので「鯉のぼり」が飾ってある。

 今回の研修生はビジネスコース受講生の中の成績優秀者であり、2週間の予定で大阪と東京を訪問。日本企業の見学を通して、自社の経営改革に役立てるという趣旨である。

 日本のODA資金の使途は「箱物」中心という批判があったが、最近は人材育成の支援に重点が移行している。たとえば建物が竣工して、そこで支援が終了するのではなく、その建物で実施される活動まで支援する。いわばハードからソフトまでの協力である。このようなODAは人と人の交流があり、単なるモノの提供よりも両国の相互理解により以上に貢献する。

 今回の研修生は、民間企業の経営幹部ばかりであり、経営学の基礎知識や経営改革の意欲は十分である。たとえば「5S」をどうように導入するか。「1S」や「3S」から始めてはダメなのか。組織改革を予定しているが、その手順や留意点は何か。中間管理職と労働者のギャップをどのように埋めるのか。日本製品の高品質の秘密は何か。ブランドを作るにはどうすればよいか。研修生それぞれからの質問である。ベトナム人経営幹部のレベルアップを実感できた。それに英語が格段に上達している。

 この研修生の中にチュングエン(Trung Nguyen)コーヒーの副社長が含まれていた。「チュングエン」といえば、ベトナムで大成功しているコーヒーショップのチェーン店であり、東京にも出店している。ベトナムで最も注目される民間企業と言ってもよい。コーヒー豆の栽培からコーヒーショップの展開までを一貫して手がけている。ベトナムのTVで紹介されているのを見たことがある。

 「ベトナムの小売業界をベトナム人のために革新したい」。「ベトナムを愛しているから、ベトナム人の意識を変えたい」。「ベトナムは富民強国が目標であるが、そのためにどうすればよいか」。また、従業員に対して「われわれは戦争している。できれば国内市場を死守して、次は世界に向けて発展する」と社長は話しているそうである。

 5年と20年の中長期の経営計画を策定しており、コーヒーショップに続いて当面は「G7マート」というスーパーマーケットのチェーン展開を準備している。このための物流センターの建設や商品調達などの難問も多い。将来は株式市場からの資金調達も考えている。

 以上のような熱の入った話を聞くと、日本の「流通革命」の先駆者であった中内功を想起する。「チュングエンコーヒー」の成功を見て、自分もコーヒーショップを経営したいというベトナム人は多い。しかし先駆者は次のことを常に考えている。スーパーマーケットのチェーン展開については、日本に運営ノウハウが多数蓄積されている。これらの提供によって、ベトナムの「流通革命」は大きく前進するだろう。

 流通近代化は市場経済の基礎である。市場経済の発展を一般国民が実感するのは、日々の消費財の購入の時点である。ベトナム人は価格に敏感であるから、毎日の低価格での商品提供は成功するに違いない。

 なお外国流通資本については、世界の小売業大手のドイツの「メトロ」や、台湾の統一グループの「ユニマート」が、すでにベトナムに進出している。日本の「西友」はハノイから撤退した。そのほかベトナム国内資本として、いくつかの既存のスーパーマーケットがある。また、地元庶民の市場(いちば:CHO)があり、その流通経路は「華僑」が握っているとも言われている。さらに各商品ごとに総代理店・代理店(=卸売り会社)が存在し、それぞれの地域に利権をもっている。

 かつての日本以上とも思える複雑な流通市場において、果たして改革の旗手「G7マート」は、どのような活躍をみせてくれるのであろうか。成功を支援したいと思う。たとえば知的支援のみならず、「流通近代化投資ファンド」の創設である。目的別・業種別のベトナム株式投資ファンドを設立し、その有力企業を支援する。このような夢を「チュングエン」は私に与えてくれた。

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営業はスポーツ感覚

 一般に、大学時代に運動部に所属する学生は就職に有利と言われてきた。しかしバブル崩壊後の景気低迷期には、運動部員にも一定水準以上の学力が要求された。しかし最近、再び運動部出身者が採用で優位性を発揮しているように思う。

 その理由は、運動部員は精神的にタフだからである。最近の企業は、最小人員で最大成果を追究している。これは当然、同時多重の職務を課せられることを意味する。これに対して勉強を一生懸命にしてきた優等生は、勉強に集中してきたからこそ成績が優秀なのである。他方、これからの企業は、この優等生を比喩として用いれば、彼または彼女に対して勉強だけでなく、クラブ活動もボランティア活動もアルバイトも同時に強制する。ひとつの仕事に専念・集中する優等生タイプの人間は、おそらくストレス過剰となり、精神的に耐えられないであろう。

 大学の運動部員に期待されるのは、スポーツを通して習得した協調性・指導力・礼儀・献身性などに加えて、体力・精神力・忍耐力と考えられる。さらに以上の「精神的にタフ」ということは、言い換えれば、「気分転換力」である。運動に勝負はつきものである。勝った負けたは当然である。勝ったからと言って安心もできないし、負けたからと言ってショックでもない。常に平常心を失わず、自己の能力や技量の向上を目指して自己鍛錬する。

 これは、企業の営業活動と同じである。営業は、人事や経理に比較して、自らの仕事の結果が売上高や契約件数などのように明確に数値化される。勝負の結果が明確である。この意味で、営業はスポーツ感覚で推進すればよい。勝負は時の運である。勝っても負けても自己反省に基づいて前進あるのみ。中途半端で不明瞭な勝負を強いられる経理や人事の職務よりも、明確に勝負の結果が数値化される営業職が、スポーツをしてきた学生にはより適応している。こういうことを採用面接で自己アピールをすれば、運動部員の就職率はさらに上昇するのではないか。 

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2006年3月 6日 (月)

バンガロール紹介

 インド・バンガロールの特徴は、インド政府観光局によれば、次の5点である。

①インドのシリコンバレー:世界のコンピュータ業界をサポート、②インドのガーデンシティ、③インドのファッションの中心地、④世界各国からコールセンターが集結、⑤インドの教育と科学の中心地。

 バンガロールは公園や庭園が点在する海抜990mの高原都市である。快適な気候や落ち着いた雰囲気は、インドに灼熱と雑踏という先入観をもった私にとって驚きである。またIIS(インド科学研究院)は、インド高等教育の最高峰と評価されており、それだからこそコンピュータ業界が注目する。また、ここでトヨタ自動車が進出・操業している。気候がよく、街も整備されており、日本人にとってインドで稀少な暮らしやすい街である。

Dsc06610  写真は、バンガロールの大手IT企業インフォシス社である。敷地が広大であるために、建物間の移動は自由に自転車を借用できる。見学にはゴルフ場のカートを使用する。敷地内でテニスやゴルフもできる。大学生のインターンシップを受け入れるための宿泊設備もある。

 日本人大学生は、もっと「インドIT研修」注目してよい。「世界トップクラスのIT総合企業で、英語とITと異文化を学ぶ」。すでにサティアム社では、NECの日本人の新入社員研修を引き受けている。ビジネスの場所が世界に広がっているのだから、勉強の視野や場所も世界に広げなければならない。それが自分に対する投資である。

 久保木JETRO投資アドバイザーによれば、バンガロールに進出の日系企業は70社、在留邦人は300名。デリーの120社、1000名に次いで第2位の日本企業・日本人の進出規模である。その代表はトヨタ自動車。インドではガソリン代も高く、インド国民車が小型車であったことから、先発のスズキが優位を占めている。また価格競争も激しい。「世界のトヨタ」ですら市場シェアは5%にすぎない。Dsc06553 ここでトヨタは、ミニバン(イノバ)とカローラを月産5万台を生産している。

 インドでは、まだまだ写真のような「リキシャ」と呼ばれる3輪自動車タクシーが健在である。初乗りが10ルピー(約28円)である。タイやラオスでお馴染みの「トックトック」と同じ形態であるが、料金メーターが付いているのが独特である。自動車を運転手付きで借りるのは4時間で350ルピー(約1000円)。この自動車料金は、ベトナムに比較して半額である。英語も運転手に通じる。自動車関係ではインドはベトナムより価格優位性がある。

 再び久保木アドバイザーによれば、インド南部は教育熱心な風土があり、私立大学の自由化を契機にして技術工科大学が多数設立された。バンガロールにはターター財閥によって1909年に前述の「インド科学研究院」が設立されており、科学技術研究で先導的な役割を果たしていた。その理由で、インド中国の国境紛争が発生した1962年以降に、中国およびパキスタンの国境から離れたバンガロールが国防関係の技術集積地として注目され、航空機製造会社が設立された。その後、工作機械から宇宙開発までの部品製造を手がけるようになっている。

 技術工科大学の優秀な卒業生が米国留学後に就職するとすれば、以上のような背景でバンガロールで勤務する。このような背景があり、1984年に米国テキサスインスツルメント社が同地に開発センターを設置し、これが成功したことによって、モトローラやIBMがそれに続いた。このようにしてオフショア生産、海外アウトソーシングの代表的な成功例としてバンガロールが注目されるようになった。「インドならバンガロール」と言われ、同地は「世界的ブランド」となっている。バンガロールは「歴史の中で選ばれた街」である。

Dsc06628  写真は、INDIAN INSTITUTE OF SCIENCE(インド科学研究院)の院長・ラフール(Rahul Pandit)博士である。彼の専門は物理学である。同研究院には、世界の大学・企業研究所との交流実績がある。

 私見では、IT技術者は、人件費もさることながら、その仕事内容に「チカラ仕事」も多いので多数の人材が不可欠である。ベトナムは人件費で最低水準であるが、まだまだ絶対数が不足している。インドの豊富な人材提供力は、依然として魅力である。ただし日本企業にとって必要な人材の問題は、日本語能力の高い技術者の多寡である。中国に比較してインドとベトナムはどうなのか。日本のODAを利用しながら、こうした技術者を急速に養成しているベトナムに対して、インドでは日本語教育にそれほど熱心であるようには思われなかった。既存または今後の欧米企業に加えて、日本企業と取引するためには日本語教育投資が必要である。現状インド企業にとって、このコストは成果に比べて過大であると想像される。

 トヨタ自動車に対応して、日系の部品製造企業が多数バンガロールに進出・操業している。アイシン精機、トヨタ紡績、デンソー、豊田自動車織機、住友電装、尾張精機、豊田鉄工、豊田合成など。さらにIT企業では、富士通、日立製作所、三洋電機、シャープ(USA)、東芝などの大手が操業中である。

 人口620万人のバンガロールは、インド第5位の大都市である。主要な観光地とは言えないのであるが、日本人にとって暮らしやすい。日本とインドの接点として今後ますます注目されることは間違いない。

 注:Statistical Outline of India 2005-2006, TATA SERVICE LIMITED, p.38 によれば、2001年首都人口の順位は、①ムンバイ:1636.8、②カルカッタ:1321.7、③デリー:1279.1、④チェンナイ:642.5、⑤バンガロール:568.7、⑥ハイデラバード:553.4 である(単位:万人)。

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2006年3月 5日 (日)

ベトナム株式投資のリスク

 日越経済交流センター『日越経済交流ニュース』で執筆した「ベトナム株式投資の魅力と留意点」を添付ファイルで紹介します。

「03-2006.rtf」をダウンロード

 ベトナム株式投資は、確かに「ハイリスク・ハイリターン」と言えますが、そのリスクは「想定の範囲内」という場合が多いように思います。現在、株式市場における流動性の不足は存在しますが、それは当然です。国内経済の成長と共に解決する問題です。

 さて、現在のベトナム株式市場では、IPO(未公開)株式投資が大きなキャピタルゲイン(株式売買益)を期待できます。こんな話を日本の友人に話すと、「私も絶対に儲かると言われて日本の未公開株に投資した。もう5年以上になるが、未だ公開されていない。えらい損しました」という返事でした。

 日本では、その時々の経済情勢や企業業績、幹事証券会社や公認会計士事務所の意向に株式公開の時期が大きく影響を受けます。またIPO株式を発行する企業は、中小企業・ベンチャー企業です。したがってIPO株式を取得しても、その利益実現は、まさにハイリスクが伴います。これが前述のようなコメントとなって表現されています。

 日本に対してベトナムのIPO株式は国営の大企業が発行し、さらに株式公開は国策です。国営企業改革を実現するために不可欠の手段とみなされています。ベトナム政府はWTO加盟とAPEC主催という画期的な外交上の2大イベントを今年迎えます。ベトナム政府は、国際社会の一員として、それなりの体裁を整えた株式市場を実現したいと考えています。

 以上のように説明すると、IPO株式投資については、日本よりもベトナムが安全・確実であると判断できます。またベトナム上場企業の売買も上下5%の値幅制限です。ベトナム株式投資のリスク、日本に比較して、けっして大きくないと私は考えています。

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2006年3月 4日 (土)

インド通観

 3月3日インド時間午後6時40分頃から約30分間、インドで貿易会社を経営されているヴィノイさんの自宅で、ブッシュ米国大統領のスピーチを生放送TVで聞いた。城壁(Purana Qila)がライトアップされ、それが浮かび上がる背景は、インド5千年の歴史を感じさせる。その前の超大国アメリカの大統領が小さく見えた。この演出がインド人であるとすれば、見事としか言いようがない。

 ブッシュ大統領の演説で何度も出てくる言葉が、「民主主義」その次が「自由」である。インドは多党制を認めた民主国家であり、確かにブッシュ訪印を批判する新聞報道も自由に掲載されている。多数の新聞が、それぞれの言語でそれぞれの地方の記事を争うように報道している。「報道の自由」が外国人にも実感できる。インド人自身も隣国中国と比較して、自国の民主主義の発展を自負しているように思われる。

 昨日指摘した小売業の外資開放については、ブッシュ大統領は「インドは外国投資の制限を撤廃する必要がある」と述べている。アメリカがさらなる市場開放をインドに求めるのは、ビジネス機会の創出のためには当然であろう。他方、マイクロソフトやINTELなどアメリカIT企業は、インドIT産業やインド人技術者なしに存続できない現状である。また、世界史の教科書にもあるように「株式会社」発祥の地はインドである。インド経済の実力は、いわゆる発展途上国とは同一視できない。

 「自由」について言えば、インドでは女性解放が今も課題となっている。中国でもベトナムでもカンボジアでも縫製工場の労働者は女性が圧倒的多数であるが、インドでは男性・女性が半分というのが一般的らしい(ムンバイJETRO・永瀬氏)。インドは豊富な労働力をもっているが、その半分の女性労働力が十分に活用できていない。これは、さらなる発展の潜在力は女性に依存しているとみなされる。なお、ヴィノイさんの自宅でお嬢さんにお目にかかったが、雑誌記者をされているそうである。

 Dsc07022 写真は、インドの象徴となっている「タージマハール宮殿」のモデルとなったデリー市内の「フマユーン廟」である。入場料金が2種類あるのだが、この区別が面白い。かつてのベトナムでは、外国人とベトナム人で料金に差別があり、それが今では撤廃されている。何と言っても「民族差別」はいけない。他方、インドでは外国人とインド人ではなく、観光客と在住者で料金が区別されている。たとえば辻本さんは6ヶ月以上のビジネスビザだから、インド在住者の料金となる。このアイデアは面白い。ゴルフ場でも、会員料金とビジター料金で格差があって当然である。この制度、国家財政のために途上国一般に導入できるような気がする。

 辻本さんのおかげで、短時間に効率的にインド調査をすることができた。感謝である。紹介していただいたインドの方々にも感謝である。これまでに親しいインド人はいなかったが、これからは楽しくおつきあいができそうである。

 ただインドの私的な問題点は次のようである。①ホテル代が高い。②インド料理ファンの私ですら、毎日のインド料理は疲れる。③日本から10時間以上の飛行時間は疲れる。④日本と時差3時間30分の適応は少し辛い。

 3月3日深夜便(日本時間4日午前2時半出発)でデリー~シンガポール、3月4日早朝便でシンガポール~関空(午後3時着)。この長旅のエコノミー席の満席状態(デリー~シンガポール間)は苦行である。

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2006年3月 3日 (金)

インドのホーチミン通り

 バンガロールのインド人(元映画監督)から、デリーにホーチミン通りがあると聞いた。ベトナムを研究していて、これは興味がある。

 自動車の運転手に聞くと、13年間この仕事をしているが、ホーチミンなんて聞いたことがないという。そこでデリーのベトナム大使館を訪問した。ビザ発行担当の若いベトナム人の青年は即座に地図で位置を示してくれた。

Dsc06993  デリー市内の地図で言えば、右下に位置している。きれいな並木道を想像していたら、要するに自動車の陸橋である。このホーチミン道路の経緯を聞きたいのだが、その時間はなかった。ハノイにガンジー公園があるから、両国間の友好親善の表現として建設されたのではないかと想像できる。

 インドでのビジネスを考えるとき、小売業の外資進出が禁止されていることが最大の問題であるように思う。運転手に誘われて、いくつかのお土産店に行くのだが、定価不明。こちらも識別眼も不足していいるので、高いのか安いのかも不明。店員のインド人が満足げに笑顔だから、絶対に相手は大もうけしているに違いない。小売業の近代化はインドで急務だし、その手段は外資開放であると実感した。

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2006年3月 2日 (木)

2機のエアフォースワン

 3月2日にムンバイからデリーに移動した。デリーの空港では、アメリカ大統領専用機(エアフォースワン)2機を見ることができた。まったく同じ双子のような機体が並んでいた。

 その後、QUADRAT INFOTECH 社と SYNERGIES DIGITAL 社を訪問した。いずれも(株)ヒロインターナショナルの辻本社長とは長い取引の会社であって歓迎を受けた。日本企業の仕事を外国に外注(アウトソーシング)する場合、やはり大きな壁は日本語である。日本語を理解できてコンピュータに詳しい人材が養成できれば、この仕事の可能性は無限に広がるように思う。日本におけるオフショアITビジネスにおける後進性の原因は、やはり日本語、逆に言えば、日本人の英語ということになるというのが私の印象である。

Dsc06944  空港から市内までにショッピングセンターや高層アパートが林立するように建設中である。インドの首都デリーの変貌は、驚くべきものがある。私は10年ほど前にデリーとアグラを数日間訪問しただけだが、近代的な建物の記憶は皆無である。首都の近代化と開発に注力する政府の方針は、ベトナムのハノイと同様に共通している。

 宿泊は「インドインターナショナルセンター」と言って、国際会議場の中の宿泊施設である。図書館の雰囲気もアカデミックだし、ビールの販売は午後7時からとなっているし、インドの知的水準の高さの要因の一端を感じることができた。

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2006年3月 1日 (水)

アラビア海の夕陽

 バンガロールからムンバイ(旧ボンベイ)に2月28日に移動。3月1日はムンバイのJETRO事務所の永瀬所長にお話を伺った。その後はムンバイ商工会議所のビレンドラさんにお目にかかった。ビエンドラさんは、昨年のAOTS研修で大阪国際交流センターが主催するセミナーの受講生であった。最後のパーティーで席が隣同士という偶然で、それ以来の再会である。

 その後はアラビア海のリゾートに行った。海は汚れていたが、ここでDsc06772 泳がない手はない。今回のインド訪問の主要な動機がアラビア海を見ることだったからである。海水は茶色で、ゴミの浮遊物が大量にある。これでは潜ることもできない。また、海水の味を確かめることもできない。多くの観光客は、ホテルのプールでゆっくりして、夕陽を眺めるというのが一般的である。

 ともかくインドに来て驚くのは、インドのホテル料金が非常に高いことである。私の宿泊したリージェントホテルでも100ドルを超えているが、ベトナムの感覚では30ドルから40ドルクラスのホテルである。この宿泊料金の高さは、インド観光やインド投資のボトルネックのひとつのように思われた。

 この日からアメリカのブッシュ大統領がインド訪問である。インドでは反対運動もあり、それを新聞やテレビでも大きく報道している。民主国家インドを印象づける出来事であった。

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